大津事件(おおつじけん)は1891年(明治24年)05月11日に、現在の滋賀県大津市で日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(ニコライ2世)が、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷したという『国賓暗殺未遂事件』である。

ニコライは切りつけられ、人力車から飛び降り近くの路地に逃げ込んだが、これを津田三蔵は追撃した。
しかし、共に訪問していたギリシャ王国王子・ゲオルギオスと人力車夫の向畑治三郎の協力により津田三蔵は取り押さえられた。
ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったものの無事であった。

これが大津事件(おおつじけん)自体の内容なのだが、考えるべきはこの後の話である。

当時の日本は、欧米の植民地化を回避する為に(当時の)近代国家へ道を歩み始めたばかりであった。
近代国家としてこの事件(殺人未遂)を粛々と国内法に則り裁くべきと主張の司法と、大国ロシアの起こりうる報復(賠償金や領土の割譲)を恐れ、津田三蔵を大逆罪で死刑にするべきと主張する行政との間で意見は割れた。

しかし当時の最高裁判所にあたる大審院院長の児島惟謙(こじまこれかた)の働きにより、事件から16日後の5月27日に一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用し、無期徒刑(無期懲役)の判決で決着。
それにより児島惟謙(こじまこれかた)は「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けた。
が、本来は大津地裁で取り扱われるはずの事件を最高裁判所にあたる大審院で直接裁くなど、粛々とからは考えられないウルトラCで裁かれた事件である事も忘れてはならない。

この事件から三権分立は日本国内で多く議論される事になり、未成熟であった「司法のあり方」を成熟させる材料となったのは間違いない。
ただ、先ので再び「司法のあり方」が問われ、まさか「行政による司法の蹂躪」が行われようとは。。。
当時、悩みぬいた関係者もあの世で二度見三度見の錯乱状態に陥っているのではないだろうか。